Column

【さて。】

 
 
 
そろそろ臨もうか、長期戦。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【被災を免れた僕たちは】

地震から3日目の朝、全身が寝違えたようにカチコチに凝りまくってました。
枕元の携帯を見ると、地震以降連絡が取れなかった仲間から「無事だ」とのメッセージ。
嬉しくて飛び起きましたが、まだまだ連絡の取れない僕の仲間、スタッフ、親族、友人がたくさんいます。



直接の被災を免れた僕たちはいま、
「被災した人達のために何かをやらなきゃいけない」
という強迫観念に襲われ始めています。

  テレビでは信じられないような映像が襲い、
  にわかに現実とは思えない津波や原発事故。
  ツイッターでは情報と怒号が飛び交う。

日本じゅうの人たちの心身は、たった3日で相当バテています。

でももう明日は月曜日。
世間は否応なく動き始めるし、バテてもいられないという現実。
そして普段の生活サイクルに戻ってしまう後ろめたさ。



現実問題、現段階で僕たちが被災者の方々に出来ることは殆どありません。
 ・節電
 ・寄付
 ・献血
 ・情報のバケツリレー
その他幾つかに限られます。

直接的なことはもう専門家の方々に任せるしかない。
忸怩たる思いだけれど、それが最善策。
軽率なボランティア心が最も混乱を招くことは過去の災害で学んでいます。

でも、僕は思う。
大きく大きく、僕たちがやらなきゃいけないことがある。それは、



    元気でいること。



被災した仲間たちが九死に一生を得て再会した時、僕たちが元気な顔を見せて元気な声を聞かせることが、僕たちひとりひとりに出来る最高のことなんだと思います。

今朝はテレビを消して、午前中3時間で曲を作りました。
(節電だからね。3時間でパパッとね。)
被災しただろう仲間の顔を、思い出せるだけ思い出して。



僕はこの曲を被災した人たちに聴いてもらおうと作ったのではありません。
被災した人たちはそれどころじゃない。
だいいち、聴ける状況にいる訳がない。
一刻も早く安全な場所に避難して、食料と水と暖を確保し続けなければならない。

僕が聴いて欲しいのは、被災を免れた僕たちです。

  実はものすごいショックを受けているけど、
  でも被災者を思うと疲れは出せないと憚って、
  何も出来ない自分に焦りと苛立ちを感じ、
  普通に生活することに何となく後ろめたさを覚え、
  ショッキングな情報に心身がバテ始めている、

そんな日本全国の、被災者じゃない人たちに聴いて欲しいのです。
こんな曲1曲で出る元気なんてたかが知れてるけど、少しでも元気が蓄えられれば。

アートワークは盟友、石垣健太郎。


【You Tube】
ここをクリック




この震災の復旧はどう考えても長期戦になる。
僕たちが今できるのは、元気をたくさん蓄えて、今後の長期戦に備えること。

僕は、電気は節約して、元気は大量に出すことにします。
そして、これから長く続く復興に、長くじっくり取り組めるだけの気力体力を整えることにします。

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【時間の肥満解消法】

(つづき)


時間に対してあやふやな態度のまま、
「今が良ければいいや」
と時間の近眼・時間の肥満になった結果、後で取り返しのつかない事態が自分自身を襲ったとしても、そこで後悔する人はまだ救われます。
人によっては後悔すらせず、またその時点で「今だけ良い」方に逃げ込んでいく。
で、気がつくと、


 取り返しがつかないほど齢を重ね、
 肉体は老い、
 蓄えは元々無く、
 心を許せる人はこの世を去り、
 孤独のまま死を迎える。


ということになってしまいます。
実際、そういう人生を送ってしまう人も現代では珍しくないのかも知れません。
それはものすごく怖いことです。



長いスパンで物事を考えられない時間の近眼。
今が良ければいいやと考える時間の肥満。


これって、この国の現状そのままですよね。



ではどうすれば、長いスパンで物事を考えられるようになるのでしょうか。
それは何も難しいことではなく、単なる時間の見方のコツにあるのだと思います。



何かが起こった時、普通それは過去の何かに原因があると考えます。
まあそりゃそうですよね。原因があって結果があるのですから。
そんな風に、何かが起こった時にはじめてその事を考えるのは、動かせない過去の答え合わせをしているだけなのです。


ここで忘れがちなのは、
「もう過去を動かすことは不可能なのだから、いくら現状を分析しても未来にはつながらない」
ということです。
<原因>と<結果>を、<過去>と<現在>に求めても、それは、もう答えが分かったことを評論しているだけなのです。



<原因>と<結果>は、<現在>と<未来>に置き換えるべきです。

今、現在、この瞬間というのは、<結果>でなく<原因>なのです。



どこか目的地に向かう時に、出発地点を見ながら後ろ向きで歩く人はいませんよね。
目的地の方を向いて歩くはずです。
現状分析ばかりして過去に囚われてしまうのは、出発地点ばかり気にして目的地を向いて歩いてないことと同じです。



今を「過去の結果」とは捉えずに、「未来の原因」として捉える。


「今の自分が未来の原因なんだ」

と思えると、自然と将来を長いスパンで考えられるようになるし、そのために今自分が出来ることを、わりと苦もなく自然に選べるようになります。



<今>を結果として考えるから「今が良ければいいや」になってしまう。
<今>を原因として考えれば、「今も楽しいし、明日も楽しい」になる。



これが僕が実践している、時間の近眼・時間の肥満の解消法です。
時間を長いスパンで考える習慣がつけば、毎日がすごくワクワクします。

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【時間の近眼・時間の肥満】

大人になってから気づいた驚愕の事実のひとつとして、
「大人になっても、思考回路は子供の時とほぼ変わっていない」
ということがありますよね。
子供の頃の30代ってすごく大人に見えたはずなのに、いざ自分がその歳になるとまだ全然子供だと感じているのは、おそらく僕だけでないはず。

この事実を子供の時に知っていれば、、、あ、たいして何も変わらないか。
むしろそんな真の宇宙法則を知らせてしまったばかりに、大人に対してナメた態度を取る子供が増えると困りますね。



ひとつだけ、子供の頃からは決定的に成長しておきたい考え方があります。
それは、

「時間」

に対する考え方。



子供の頃は、時間の切り取り方なんて「朝」「昼」「夜」くらいでした。
少し知能がつくと「12時間」から「24時間」に切り取れるようになるけれど、スパンが1日単位なのは変わりません。
スパンを大きく取っても
「一学期→夏休み→二学期→冬休み→三学期→春休み」くらい。
大学生になっても、時間に対する考え方なんてそんなものだったかも知れないなあ。

社会人になって仕事をするようになっても、暦とか年中行事とか、とにかく1年周期のスパンで物事を考えることが多いですよね。
そうすると、時間に対する視野がどんどん狭くなって、
「ああ、もう3月か。今年は早いねー」
という、毎年お決まりのセリフが口を突いてしまう。

これを漫然と言わずして何と言うのでしょうか。



「時間」というものをこんな風に、ざっくりと、おざなりに、なおざりに、何となく扱うクセが付いてしまうと、知らぬ間に、人生のスパンもいい加減に考えるようになります。

何となく、
「こんなもんかな、自分の人生は」
と、そう考えることがさも大人の証であるかのように思えてきて、
「こういう小さな幸せが本当の幸せだ」
などと、どこかで聞いたようなセリフを免罪符にして、今の自分の人生に「全肯定」という名の目隠しをしてしまう。

結局、時間に対する考え方があやふやなばっかりに、自分の人生までもあやふやにしてしまうのですね。
あやふやとはどういうことか?
それはとどのつまり、



時間を長いスパンで考える訓練をしていない



ということに尽きると思います。

時間を短いスパンでしか考えられないということは、時間の近眼になっているということ。
時間を短いスパンでしか考えられないから、「今が良ければいいや」と考えがちになる。

今が良ければいいということは、時間の肥満になっているということ。
つまり、時間の食べ過ぎなのです。

(つづく)

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